2011年4月25日月曜日

体調

先々週の津波調査で土日がなく、ハードに動いたせいなのか、季節の変わり目かわからないが、先週は体調がすぐれない一週間だった。特に、昨日、一昨日の土日は、完全に風邪をひいてしまった。まずはよく寝ること、に尽きるので、子供には申し訳ないものの、遅くまで眠らせてもらった。幸い、それ以上悪くならず、現状維持か、やや回復気味。

のどに来ているので、妻から言われ、手作りの柑橘を漬け込んだ蜂蜜を寝る前に舐めることを実行したら、朝起きた時の状況が良い。

疲れると、日記の更新が滞るのが特徴である。

2011年4月20日水曜日

大学循環バス

初めて、大学循環バスに乗る。

バスで横浜国大橋を渡るとき、視点が高いことに気づく。これまで見ていた景色と明らかに異なることに感動を覚える。今回は本当に目に見えることだが、違う視点から見ることの大切さを気づかせてくれる。

津波調査の写真追加と調査グッズの更新

5日間の津波調査について、文章だけだった日もあるので、先ほど写真を追加しました。

また、調査グッズについても、行く前の段階で、
にアップロードしているものの、今回の経験でブラッシュアップの必要も感じたので更新したいと思います。ビデオは、後継機が出ています。

カメラは、イクシレムのGPS付が良いということで、さらにパノラマ撮影も充実しているそうなので、買いたいと思います。

とりあえずメモとして。

距離計は、インパルスが最高のようです。45万円。

とりあえずは、貸して頂けることになりました。感謝いたします。

2011年4月19日火曜日

学生実験マネジメント

学生実験のマネジメントについて、今年は学生主体に持っていっている。

学生は初めての経験なので、必ずしもマネジメント手法を身に着けているわけではないし、思い違いで抜けがあることもあろう。それを、できる限り良い方向に導くことが、問われている。あくまでも講義なので、研究のようにうまくいかなくても本人の問題というわけにはいかない点が異なる。3年生に対して、サービスが低下してはいけない。

失敗していいものと、失敗してはよくないものがある。後者としては、材料の手配がまずくて当日に足りない、試験機器の理解が浅いための操作ミス、という類のトホホなもの。これは避けなければならないが、学生だから間違うこともある。それをどうやってこのチームとして防ぐかが、簡単なようで難しい。正しいことを私にチェックしてもらうのではなく、正しいことをチェックする方法も自分で提案し、それを示すこと、を何度も何度も言い聞かせている。そうすれば、私が実際にチェックだけに追われてしまうこともないし、学生も、チェックしてもらえるからと安心しきってしまうこともない。

前者の失敗してもよいもの、について。W/Cをいくらにすればよいか、グラウトの材齢をどうするか、などは、今年も条件をちょっと変更するために検討が必要なため、その変更に対しては、失敗するリスクは抱えている。しかし、このようなものは本番でも失敗してもよいと思っている。場当たり的に決めるのではなく、どのW/Cがいいだろうかと学生が仮説をたてて検討した上であれば、あとは私が責任を持つ。もし強度が意図したものと違ったとしたら、(1)なぜ違ったのかを考えるきっかけになるし、それを使って3年生に教育もできるし、TA自体の教育にもなる。(2)意図しなかった材料強度でも梁の実験はできる。そして、梁載荷の結果が予測と異なれば儲けものであり、その構造について、さらに高度な説明ができるようになる。そういう間違いは恐れずにどんどんやって欲しい。

2011年4月17日日曜日

津波調査 5日目 仙台

今日は、仙台市若林区の沿岸部を調査する。

7:30古川出発。
東北自動車道を南下し、仙台東部道路を経て岩沼ICで降りる。盛土が動いているため、制限速度は50km。途中、沿岸部の若林区の様子が、道路から見え始める。





沿岸部は、災害復旧関連と地元住民以外は通行止めになっているが、事情を説明して、入れていただく。

8:45から9:30、岩沼海浜緑地。松林がなぎ倒されている。沿岸部より、消波ブロック、堤防、松林、と続く。堤防は、沿岸側は基本的には被害は無く、越流した後の山側が洗掘されている。根入れ部分も流出し、流されている。内部の土壌が流出し、崩壊している箇所がある。基本的には、越流後の山側から洗掘が始まり、土壌流出、コンクリートの崩壊、と至るようだ。一部、土砂の崩壊が、海側に達していて、堤防が貫通している箇所もある。切れた理由を推察してみる。その位置が、たまたま、施工の区切り部分だったため、水みちが存在していること、波消ブロックが切れる箇所に近い部分で外力が集中したこと、が可能性としてあるだろう。








10時。名取川の右岸へ。堤防は機能しているようで、5mの堤防高さのうち、3m程度まで水の跡がある。のこり2m程度。

10:5011:30、県道10号の名取川を渡る閖上(ゆりあげ)大橋が不通のため、1区間だけ仙台東部道路を乗り、名取川を渡り、海岸公園へ。閖上大橋の不通理由は現地ではわからない。多分、ネットで調べれば情報は出ているだろうが、事前リサーチ不足である。
海岸公園では、運河の護岸整備、水門の建設がおこなわれている最中に被災し、まっさらな構造物を背景に、建設機械が被災している。その水門と、作動させる巨大なジャッキがぴかぴかの状態で鎮座しているが、まだ電源は繋がっておらず、その水門が閉じられることは無かった。
水門の一部を成す、運河を渡る道路の手すりは、可動式で倒せるようになっている。越流した際に、障害とならないように考えてのことであろう。今回は、倒していなかったため、木々が引っかかったり、波の影響でなぎ倒されている。
工事用の鉄板が流されたものが建物に引っかかり、折れ曲がっている。これからも波力の最低荷重が計算できる。
そこから松林全体が見渡せた。沿岸部はなぎ倒されているが、運河部分はかろうじて残っている。水の作用の仕方で変わるようだ。その後沿岸部も見る。











11:4512:30、3箇所目、南蒲生(がもう)近くの海岸公園。駐車場、テニスコートだったところが、がれきの処分場に変わっている。その横を縫って、海岸部へ。
途中、トイレに痕跡がはっきり残っていたので津波高さを計測。
水路を渡る箇所で、橋の落橋に遭遇。3径間のうち1径間が落橋。支承は載せるだけのもので、寸法、スパン、そして、周囲の地盤のえぐられ状況、そして、その位置の松の木が生き残っていたおかげで、松の皮が破けた箇所で津波の高さがわかった。これは、この5日間で落橋の調査もおこなったが、一番良い例だと思う。剥けた松の皮の内側に、マツヤニがべっとり滲み出している。生命力を感じた。



全ての調査を終了。

仙台駅でレンタカーを返し、14:19発の新幹線連絡の快速に乗り、福島へ経由で帰路。

津波調査 4日目 志津川~松島

前日は気仙沼まで来た辺りで暗くなり、市街地の調査はできず、帰路へ。小泉海岸(小泉、津谷)で、内陸部に入って多賀城へ向かった。

4日目の本日は、多賀城から北上しながら、気仙沼まで行くことを計画するが、結局は、志津川町を見て、終了。

朝、ルートイン多賀城の6階から外を見ると、すぐに海が近いことがよくわかる。概ね片付けはすんでいるが、空き地には、つぶれた車が並べられている。



出発。市街地は腰ぐらいまで浸水しているため、概ね店舗は休業。コンビにも閉まっているところが多い。何箇所目かで、昼食の買出し。

塩竃を過ぎ、松島町へ。山の展望台にのぼり、見渡す。逆光と朝のもやで良く見えないが、島々が点在し、津波を弱めていることは良くわかる。

松島の漁港(名前はあとで)。膝下の浸水。

とうな。西側は松島湾、東側は石巻湾に挟まれた低地で、ここも被害が大きい。

途中、野蒜築港の看板が。行けなかったが、野蒜というキーワードを聞いてピンと来る土木技術者でいたい。

鳴瀬川橋梁のフィンバックを横目にみる。

石巻。あたり一面、ひどい惨状。ことごとく破壊。描写する適切な言葉が見つからない。



万石浦。殆ど池のような形状で、静かな海。かき養殖で有名という。コンビニで休憩したが、膝程度の浸水という。ただし、水の速度は出ていないだろう。

女川。これもひどい。町全体がなくなっているようだ。



指ヶ浜で止まって観察するが、計測はせず。その手前の川(御前浜に流れる川)を渡る、今通ったR398は壊れていたよだが、土砂をもって通行はできているようだ。本当に壊れたかどうかは、チェックしていないので不明。

雄勝(おがつ)半島が、調査が手薄ということで、橋の前半はこの半島を中心に調査。途中、地震。雨と雷。半島で5ポイント計測。本日のメインだったが、記録の詳細は後ほど。



北上川へ。北上川へ流れ込む支流の町も浸水。田畑が多いが、全て水がかぶっている。

新北上大橋は落橋。次の橋までは、上流10km。

三陸自動車道が迂回路になっていて、津山町経由で、気仙沼線に沿いながら、R45号、東浜街道を東進し、志津川湾へ。2km手前(上流)くらいから、一体、壊滅。



JR陸前戸口駅は流出。線路は、盛土は流されているが、小さな川を渡るボックスカルバーとは残る。前後の盛土は流出あり。集落の中心部の、南へ行く方の河口部の橋(R398)は流出して、ない。時間無く、調査できず。

志津川湾に沿って北上して、志津川町へ。テレビの報道で何度も見た光景、そのまま。日の入り直前に着いたということ、既に海岸工学の研究者で調査されているということで、計測はしない。ここは、余りにも有名な場所ということもあり、ここに立って、色々と見ていることが、単に物見遊山ではないか、ということと自問自答しながら、見て回る。フレームだけになった防災庁舎も、見える。防災の町ということで、沿岸部には、チリ津波のモニュメントなどが多数あるが、その多くは転倒している。沿岸部で、がれきを燃やしているのか、煙が目にしみる。

気を取り直し、行ける範囲の橋を見る。水門は、閉じられているが、その横の河川堤防が決壊して、外海と繋がっている。下流から2つの橋は健全。



最後、帰る段階になって、仮設橋の部分を通るので、5分程度車を下ろしてもらい、走りながらビデオを回してレポート。R45が水尻川を渡る部分が仮設橋。橋は、2径間で、上りと下りの車線は、桁の構造が別れている(ただし、周囲からは、一体に見える)ようで、左岸の下流の桁が流され、下流側へ転がっている。この部分は、交互通行で渡れる。終了後、周囲の状況、その位置での津波の高さについて観察しなかったことが悔やまれるが、これは、再来週の調査でおこなう。右岸側で、その2径間の橋が終わった箇所が、地盤がえぐれており、通行できなかったのを、架設の橋が渡っている。

ここでも、昨日見たのと同じ、状況。橋はあるのに、橋の機能が提供できなかった。ただし、橋さえ残っていれば、背面の地盤は、応急復旧で土を盛れば渡れるので、必ずしもこのことを強く言う必要はないかもしれない。ただ、いくつかの整備レベルの最上位には、橋も壊れず、背面地盤も壊れず、というものが位置するだろう。

この道路橋の上流の鉄道橋は流される。ビデオに収めたつもり。

帰路へ。

19:10ごろ、古川へ。電気も水も、店舗もあることに感謝。

この辺は、地震の被害も多かったようか、家が丸ごとつぶれているのもあった。


翌日、これを書いている5時38分、少々揺れる。

メモ:
地名の読みは、事前に調べておくこと。現地で共通のコミュニケーションがとれないことは時間の無駄。
地図。広域と詳細。地図帳のいいとこどりでコピーが良いか。
内陸部もあったほうがよい。途中、道路や川の状況をチェックできる。
東北地方の道路地図帳は正解。さらに分県地図も欲しいが、重すぎるか。
付箋は今日も大活躍。
GPS ガーミンは、研究室で買ったほうが良い。
GPSカメラはイクシレム。
通行止めは、事前チェックしていなかった。
風が強い。地形のせいか。
夜は、必ず風呂に入って、体をほぐしてから寝ること。当たり前だが、疲れと戦うのはきつい。今晩はできず、朝、大浴場へ。

2011年4月16日土曜日

津波調査 3日目 宮古~気仙沼

昨日の日記について。2日目の夜は、ほとほと疲れ果て、PCを開く気にもならなかった。5時半起床。一応疲れは取れた。6時朝食、6時半出発だったので、PCを開けず、助手席で書いている最中、釜石に着き、写真やビデオを取りながら、アップロード。回線の状況が悪く、写真はエラーとなる。ということで、誤字だらけだがご容赦を。タイトルの到達地名が間違っていたので、今直した。写真もアップロードやり直し。

さて、3日目。

遠野を出発し、市内のコンビニで買出し。コンビニにはヨーグルトもあり、不足は感じられない。時間帯によりかも。

本日の予定は、まず東へ進み、釜石に出てから、一度昨日の終点の宮古まで北上して戻り、そこから南下するものである。

釜石に着くと、市街地は通らずにバイパスで通り越す。車中から、瓦礫の様子は見える。テレビに出てくる、大きな漁船が打ち上げられている様子は遠めに確認した程度。助手席にいながら、ビデオが活躍。細田先生の言うとおりだ。とりあえず写しながら、コメントを記録。メモとして有効。

まずは北上。宮古までは車中のみで止まらない予定。

釜石北。ICを降りたところの鵜住居川を下るにつれて、瓦礫。

船越湾と山田湾を結ぶ、低くなった土地は、陸地を津波が抜けたという。

宮古に着くと、今度は、宮古湾の東側に位置する、重茂(おもえ)半島を目指す。宮古湾の最奥部に位置する津軽石川には、瓦礫。水門があるが、それはどの程度機能したのだろうか。運動公園辺りも一面瓦礫の山。半島に向かう道路は、波の浸食で、護岸は流出し、ガードレールがないところが多く、復旧のため、丸太がそのまま置かれて、ガードレール代わり。それがずっと続く。一部、漁具の浮きが並べられていたり。誇張ではない。アスファルトはめくれて、道路はでこぼこ。

その右手の山側には数箇所、水門に守られた集落のようなものが見られるが、海に近い20mほどは壊滅していた。

まず、重茂半島の突端へ。ここは、土木学会ではまだ計測されていない地域という。既に研究者が計測しているが、土木学会とは関係ない別の団体であった。最大高さは20m程度。



次に、太平洋側(半島東側)を南下した箇所を測定すると、15m程度。ここの漁港には、堤防があったため、高さが抑えられたのだろうか。なお、コンクリートの防波堤が、打ち継ぎ目でぽっきり折れている。ざっくり、1000tonの静的換算の水平力と試算。海岸工学の先生と同行しているが、このような観点の指摘はなかったと思うので、些細無いことであるが、構造的な観点からコメントしまくりたい。そういうモチベーションで参加している。なお、メンバーは、海岸工学の教員2名と、その研究室の留学生と私の4人である。留学生には、敢えて、どんどんコンクリートや橋梁、構造の話も織り交ぜてコメントしまくる。凍害やアルカリ骨材反応も、ごろごろしているので、良い教材だ。電柱も、塩害ひび割れ少々。



次は、比較のために、半島の西側。宮古湾内だが、湾口部に近い、「追切」という地名で測定。結果、おそそ30m強。当初の予想と反対に、波が直接作用した東岸ではなく、西岸の方が高いとは。局地地形の影響もあるので一概には言えないが、湾の影響か。なお、津波の痕跡を探すのは大変。単に、たった一つの発泡スチロールの最高点の痕跡をピンポイントに取り上げるのではなく、周囲の状況を見ながら、説明のつく正確な痕跡を探す。なるほど。

今回、迷う箇所が何度かあった。土壌を塩分滴定で計測できるのではないか、と提案したところ、興味は持っていただいた。研究室で滴定装置を導入したことも生きるかな、と思ったが、結局、そもそも飛来塩分もあるから、単に計測しただけでは区別が難しいし、そもそも1ヶ月も経過して何度か雨も降っているので、無理と判断。とはいえ、前述の通り、私の持てる知見を、海岸工学の先生に提示して違う観点からの議論を呼ぶことが私のミッション。

この「追切」において、住居が全壊した跡が良く見えた。風呂や家具、食器類などが見え、生活感がわかったとたん、こみ上げてくるものがあった。これまで、瓦礫だけを見ていると、現実感がわかなかった、というのが正直な感想だった。しかし、数十分の間、この付近を歩き回って、そのような状態を見たことで、気持ちがこみ上げてきた。

既に、12時をまわり、車中、コンビニで買ったおにぎりをほおばる。

半島は最後に、東側(太平洋側)を計測する。沢に沿って上がっていった波を計測。実際の水が流れているので、沢登、岩登りの様相を呈する。私は慣れっこだが、このような装備で山登りはきつい。沢が電波を反射するのか、測定の精度を出すのに苦労するが何とか完了。



宮古を後にして、南下する。時間がだいぶかかったので、先を急ぐ。

波板海岸にて、鉄道橋が流出。私が運転していたので、写真はとれず。

大槌町。河口部の道路橋は生きているが、軸方向に見ると、一部30cmほど下流に動いているようだ。

両石。車窓から。

釜石。車窓から。高台で止まって、湾の写真を取る。

吉浜。ドライバー交代。後ろの座席へ移動。

大船渡。高速道路を通っているため、市街地は通らず。高台から湾の写真。防波堤が殆ど消えている。

17時。陸前高田。跨線橋が落橋しているが、線路自体も流されているため、そのまま陸地が整地されて、道路として復旧されている。

さらに行くと、川で、道路が切れたのを、仮設の鋼桁橋で応急復旧。当初、落橋と思った。近づいてよく見ると、2つの橋台と桁(PC)は健全。橋台背後の地盤が流出しているため、仮設の橋をかけたのである。架設の橋の片側は、既設道路橋の上に載っているのである。橋というものは、コンクリートのアバットからアバットまでではなく、やはり、道路の機能保全として一体に考えなければ意味がないことがわかる。



その後南下している最中、似たようなことが多く、周囲に何もない中で、一見無傷な橋だけある、という奇妙な状態があった。道路(線路)が消えて橋が残る、という不思議。総合政策として対処すべきではないか。

343号で、矢作付近で、線路流出。森戸が流されて、逆に、橋梁が残っている箇所も。

陸前高田から、R45は通じず、結局西回りに。竹駒では、下流から4kmのところに、一見周囲に山しかないようなところが、津波の被害。瓦礫。不思議な光景。

車は気仙沼高田線(県道34号)を南下して、気仙沼へ。R45は内陸部なので、市街地はわからず。遠めに、被害を受けていることはうかがい知れる程度。この辺で日没近く。

沖の田川を跨ぐ鉄道橋が流出。

以後、暗くてわからない。細田先生が前回見てきて、4月末にもまた来るところなので残念。

津谷からは、内陸部を行く。

北上川を渡る、R346の錦桜橋を通る。

R346、佐沼を過ぎる辺りから、どうろがでこぼこ、盛土が滑っているのか、橋梁との交差部で、車がジャンプする。がたがた道だ。これが、多賀城に着くまで続く。

松島を通る。暗くてわからないが、浸水した跡がわかる。

塩釜。夜なので状況はわからないが、周囲に電気が極端に少ないことで、被害の程度がうかがい知れる。逆に、地域の拠点になっているのか、コンビニだけが赤々と電気がついている。横浜とは真逆。

21時。ホテル、ルートイン多賀城。すぐ海のようで、駐車場の横には、つぶれた車が転がっている。周辺も相当浸水被害のようで、計画断水中という。ホテルのタンクに水があるので、水道は出る。

お風呂は共同浴場のみ。エレベータが使えないので、非常階段がメイン。10階建てで、私は6階。雨が降ったら大変だ。部屋の掃除も手間を減らすために、各階はろうかから土足厳禁。非常階段からフロアに入る時に、靴を脱ぐ。この不便さに、現実に引き戻された感じがする。夕食場所も少ない。食後、コンビニに行ったら、殆どの生鮮食料は、売り切れ。


以下、メモ。役立ったもの:
ストラップ

付箋
トランシーバー

2011年4月15日金曜日

津波調査 2日目 八戸~宮古

7時半過ぎに八戸を出発。

八戸-久慈間で海岸の調査が手薄になっている地域があるということで、そこの漁港に目的地を定めている最中、橋梁が流出している場所を通り、急遽変更。津波の遡上高さを計測しつつ、私は橋梁の調査。JR八戸線。鋼桁の単純梁の4径間が流され、山側に20mほどのところに転がっている。支承が簡単に外れたためか、柱は健全のようだ。橋梁部とその前後の線路が大きく流されていて、作業員が撤去作業に入っている。まず初めに、流木や倒れた木の伐採がおこなわれていたようで、痕跡が消されつつある。この1ヶ月目というのは、結構ぎりぎりの日程のようだ。

橋梁部は高い場所が存在しないので、直接の作用した波はわからないが、遡上高さの計測でもりかえていく最中に、橋梁のアバットを介すようにしたので、後で比較ができると思う。





その跨ぐ川の50m上流にも、1スパンの道路橋が被害を受けているが、桁は残り、前後のアバットの裏側の地盤が流出して通行止め。狭い河口部に流れが集中したようだ。




次、小舟渡漁港。堤防内は、5m程度の浸水。建物は壊れているが、山側はすぐに標高が上がるので、被害の規模は小さいようだ。流木や瓦礫は撤去されて綺麗になっているので、一見わか
久慈湾北の麦生漁港。急峻な坂を下りると、漁港があるが。コンクリートの土台を残して何もなかった。ただ、これは瓦礫の撤去が終わった状態。しかし、コンクリートの建物の土台の壁面は、大きく速報からの押しぬき破壊のようになっており、激しい衝突が生々しい。言葉を失う。遡上高さを測るが、同行する鈴木先生が斜面を駆け上り、登山、岩登りの様子を呈する。



久慈湾北部の、久慈石油国家備蓄基地の隣の斜面。当初、備蓄基地があるとは知らず、驚くが、施設の上もののタンクや機械がことごとく被害を受けていて、瓦礫の山。この基地の構造を知らないが、土木教室の見学会で2回、別の備蓄基地を見ていたため、全体的な構造、施設の持つ意味を知っていたので、言葉も出ない。一度見学で知っているから、そういう観点で見ることができたのは、いろいろなことを選り好みせずに経験することは大事と強く感じる。同様に遡上高さをまた鈴木先生ががけに上って計測。



久慈。今後訪れる予定の、三陸鉄道北リアス線の被害の情報収集。アポなしで駅に行くと、駅長さんにお会いでき、短時間で話を聞く。橋梁が数箇所流され、1つ、橋梁と駅舎全てが流された箇所があるという。地図に目も程度とし、時間が無いので、詳細は改めて横浜に戻ってからとさせていただく。

以後、時間が無いので、ペースを上げる。


野田市街は車窓からであったが、辺り一面、戦場のような瓦礫が続く。言葉も無い。

普代村。河川内は木がなぎ倒されているが、被害は少なそう。堤防が守った、といわれているその通り。堤防の外は、瓦礫。堤防は強固だが、堤防の付帯設備(階段、手すり)は根こそぎ内。堤防のすぐ内側の付帯道路は、PCの単純桁の4径間。桁について、1つは無傷、2つめは主鉄筋が降伏程度の1点曲げ載荷されたような状態。3,4つめは、ぽきんと中央で折れている。上流方向に流されてはいない。上から巨大な力で叩かれたように見える。堤防を越流した水圧による衝撃なのか。



次は、R45が内陸部を行くので、沿岸部は通らない。机浜、田野畑。などは行きたいが、断念。

安家川。津波の遡上高さは、国道まで達していた。20mくらい。川の上流100mの橋が流出がとおくから見える。

田老。胸にこみ上げてくるだけで、言葉は出ない。2重の堤防の内側も、殆どやられている。3年前に研究室合宿で泊まった旅館のあった方面もない。ただ、斜面を上がると、被害は少ないように見えた。自衛隊が瓦礫の撤去作業をしている。堤防の外側にも行くが、研究室全員で練り歩いた漁港施設は跡形もない。2重の堤防の外側の一部は、倒されているのか、形がない。遠くからだが、昭和、明治の津波の痕跡のプレートが見える、今回の高さは、同じ程度か、わからない。



宮古。事前情報で30mの遡上高さを記録した箇所があるということで、それを探すが、結局わからない。漁港付近をまわるが、民家はつぶれているものの、北側ということで、北から来た波の直撃を避けているためか、少し離れると残っている。この一体、電柱だけ復旧されていて、折れた電柱の横に新しい電柱が立てられて、電線が張られていた。

この時点で18時。調査を打ち切り、宿泊地、遠野へ。ここしか宿が取れなかった。

2011年4月14日木曜日

津波調査 1日目 八戸

7:30羽田発の飛行機で青森空港へ。レンタカーを借りて、宿泊地である八戸へ向かう。

空港からの道は、車内からは大きな被害は確認できないが、盛り土がやや動いているのか、ガードレールや沿道の電柱が傾いているものが見られるが、ひどい状況ではない。路面も多少波打っているかなと思う程度だが、首都高速湾岸線の圧密沈下によるそれよりも小さいので、地震前なのかわからない。

今日は移動日にあてていたので、八戸では、予め決まっていたわけではないが、まずは太平洋岸を見るために、至近である三沢漁港へ。漁港内の施設は、1階部分は穴が開いて抜けている。敷地内の平地は打ちあがった瓦礫類は片付けられて所々山になっているので、一見整然としていた。

津波がどこまで達したのか、まずは防砂林に入り、痕跡を追う。松林であるが、人の高さくらいまで、草やたまに漁具が引っかかっている。200mくらい入ると、急に発泡スチロールがたくさん残っていて、そこが最大到達点であった。流速がゼロになるため、そこに残るとのこと。GPSで位置を確認する。距離が遠いので、測量は難しいので、高さは計測しない。



土砂が運ばれているので、5cmほど新しく積もっているようだが、ふきのとうがあたり一面顔を出していることで、春を感じるが、津波という厳しいイメージとのギャップが不思議だった。

漁港の敷地内の公園のようなところに野球のフェンスが倒れている。構造力学的には単に鉄の円筒棒が曲げを受けて(言葉が悪いが、綺麗な状態で)降伏しているので、簡単に外力が推定できそう。寸法をメモしていたので、すぐにでも計算できる。後で。



沿岸部に行き、痕跡を探すと、5mくらいのところに痕跡があった。まずは、私も含め新メンバーの練習で、測量の手法を教えていただきながら、痕跡の高さと位置を計測。その後20分ほど周囲の状況を見て、移動。

昼食後、午後は、同じく、三沢あたりが、海岸工学の学会の調査で空白部分になっているという情報から、別のところでもう1箇所測定することにする。

防潮堤は、一部表面がはがれているが、基本的にはそのままの形で越流している。一部川の水門の横だけ、写真のように大きくえぐれている。RCといっても、鉄筋が少々の無筋に近いもので、一番ひどいところが写真の場所で、おれて欠落している。四角い穴に単に置かれているブロックは、内部の砂がえぐられて、多分その場に落ちている。フレームはどこに言ったかと探したら、これも、その場所で下に落ちて、砂に埋まっていた。





その後、内陸部に工場や民家があるので、痕跡を探しながら、測量を続け、400mくらい内陸に入ったところで最大到達点を見つける。ちょうど地元の方と話ができ、その辺りまで水がきたとおっしゃっていた。そのご年配の女性は、生まれて初めて津波が到達したといい、それを見た時点で怖くて高台に避難したという。

とりあえず、ここまで。

2011年4月12日火曜日

明日から調査開始

朝から津波調査の打ち合わせ。行く場所の最終決定をする。早朝の飛行機で青森に行き、そこから沿岸を南下して、4泊5日で仙台まで調査するものである。

今日も余震があり、言葉がない。

今日は実験に関する学生へのレクチャーが2件、学生実験のオリエンテーション、別の調査の打ち合わせが1件、業者対応が1件、となかなか自分の準備ができない。ホテルに問い合わせると、お湯は出るとのこと。用具の準備は前回の調査を整理するだけなので、それほど苦ではないが、車ではなく公共交通なのですべて自分で運ばなければならないことが、大変。できるだけ少なく。安全対策だけは十分に。アスベスト飛散も報道されているので、念のために実験室の防塵マスクも一箱詰める。

詳細は、この日記で報告できるほど余裕があるかわからない。これまでの知見を総動員して、見て、感じて、行動してきたい。

海岸工学の専門家の考え方を学び、コンクリート工学と結びつけること。全てできるとは思わないが、今まで経験していないことを学び取りたい。

2011年4月11日月曜日

育てる

朝、学生実験のティーチングアシスタントとの第3回打ち合わせ。

今年は、レジュメの内容は基本的には変えないが、実施の主体を学生に完全に(または大きく)シフトさせること、が「学生実験」の講義に関しての大きな変更である。大学院生の教育と意味も込めているが、単にそれだけでは、教員が楽をして講義のレベルが下がるのではないかという懸念もあろう。しかし、単に学生に投げるだけではなく、そういう体制を適切にマネジメントすることで、昨年よりトータルとしてアップできると思うし、そうすべき段階に来ている。言い換えると、全てが私が前に出て行うのではなく、適材適所のマネジメント。

実際、ある面突き放すことで、学生の目の色も変わってくるし、私が水曜日から出張でいなくなることに対して、準備等を前倒しして私のアポを取るようになっている。学生だけでなく、私も方法を変えて、それがうまくいくように仕向けなければならない。先日紹介した「上杉鷹山」ではないが「周囲を変える前に自分が変わる」につながる。

ミーティングの場で学生に質問がないか投げかけることも大切。今まで、一方的にしゃべったり、方法を告げたりして実行していることが多々あった。問いかけても、すぐに反応を見て、ないね、と判断していることも。でも、そこで一瞬待つというか、そういう間合いを取ると、やっぱり出てくる。そして、そのような素朴な疑問こそ、私と学生との距離感を確かめる術であり、結果として良い改善につながるように感じた。

学生は今年からそういう状況になって戸惑ってはいるように見えるものの、彼ら彼女らなりに考えて提案してくれる行為は、きちんと受け止めてできるだけ生かす形をとりたい。私の、このプロジェクトの、本当の目的を見失ってはいけない。ここで詳細を直してしまうと、短期的には見かけは良いものができるかもしれないが、中期的にはよくない。オリジナリティを奪うことにもなり、成長の芽を摘むことにもなりかねない。全体において些細なことであれば、任せるという判断も必要。私もある面そうやって育てていただいたと思う。

参加している上級生も、彼らなりの立ち位置を繊細に考えてくれているのがわかり、適切なアドバイス、あえて議論を仕向けるような質問もしてくれていたと思う。

2011年4月10日日曜日

本の整理

読んだ本の整理をしたかった。物理的な置き場の話ではなく、周囲の人に薦めたい本のレビューなど。博士課程の小松君のブログの紹介が気になっており、週末にブクログを開設してみた。このブログにリンクを貼った。

とりあえず、過去3年間のウェブ日記をざっと見て、そこで紹介してきた本を登録してみた。それ以外に読んだ本については、本棚を見ながら追って登録することになるだろう。

本で思い出したのは、私は中学校から星新一のショートショートが好きで、だいぶ読んできたきたこと。大学生の時、星氏が亡くなったのを受け、ショートショート1001編を収録した全集が3万円で発売された。厚さは20cm位ある。買おうか買うまいか悩んだが、数年後、大学院生のとき、思い切って買った。

話は飛ぶ。金曜日の歓迎会の際、終わりのほうで、なぜか私のプロポーズの話になった。学生Nによると私の鉄板話らしいが、それに関係している。M2の夏、相手がフランス赴任という遠距離恋愛となった。任期は最低2年ということで、3年くらいかと覚悟していた。およそ1000日。で、そのショートショート1001編が収録された本を、毎日1編ずつ読めば終わった頃に帰ってくるだろうと、買ったのである。若い頃の話だ。

3万円の本というのは、これまでで最高額である。結局、その本は読めていない。背表紙だけが色あせてくる。たまに、無作為に本を開いて、面白い短編に出会うのが楽しみである。

2011年4月8日金曜日

突然やってくる

朝9時から研究室配属になった4年生の顔合わせ、夜は研究室歓迎会。以下、両方の席でしゃべったこと。数年前、上の先生からも言われたことと重なるが、心から思う。


学生の研究室で卒論を書く目的は、一義的には卒業するための単位として。しかし、もっと大事なのはこの場を通して高等教育を受けること、社会に出る前の最後に学ぶこと、である。全ての行動や体験は、今すぐにではなくても必ず自分の糧になる。教えるという形態をとっていなくても、うちの研究室でおこなわれている事柄、周知されている内容は、それを意識して企画周知しているので、選り好みせずについてきて欲しい。さらに、コンクリート研究室外にも改めて目を向け、今のうちに土木工学という分野を狭めて欲しくない。


私に例えると、来週津波調査に参加することは意義深く、楽しみである。しかし、そのようなタイミングというのは運みたいなものなので、突然やってくる。やってきてから何かを勉強しようというのでは到底間に合わない。構造・耐震の研究をやってきたこと、現場調査をやってきたこと、津波という現象に興味を持って勉強していたこと、などが全てが役に立つかもしれない(まだ行っていないのでわからないが)。逆に、今気づいていない、遣り残したことはたくさんあるだろう。若いうちは選り好みせず、来るべきタイミングに備えて、ひたすら経験して身に着けておくことだと思う。


殆どの事柄は突然やってくる。そういうものなのだ。

2011年4月7日木曜日

津波調査

4月5日は、土木工学教室の歓迎会と送迎会。皆の心のこもったスピーチに、スタッフ17名のこの教室の暖かさを改めて認識。今年は幹事研究室となり、私が店の段取りと司会。途中、私が勘違いして、主賓の挨拶の前に記念品を渡すというポカもしてしまった。私はなんと本番に弱い男よ。

その歓談中、津波調査でスタッフを探しているというのが、右前方から聞こえてきて、すぐに手を上げる。もし、ここで聞き逃していたらこの話はなかったのだろうかと今考えているが、とにかく、水環境研究室の津波調査に私も加わることになった。タイミングを逃さない、という姿勢は大切。昔に比べてキャッチできるようになってきたような。

検討の結果、13日出発で、3泊または4泊という。場所はまだ未定。

津波の調査なので、もちろん専門外の私が足手まといにならないように、かつ、彼らの専門分野の知識や手法を貪欲に学びたいと思う。コンクリート単体の調査は、私が行かなくても既に行われていることから、そこを求めるのではなく、水理分野とコンクリート分野がオーバーラップすることで何かプラスになるような視点から活躍できればと思う。

今日、細田先生が1週間の調査から帰ってきて、短時間で濃密な引き継ぎをいただいた。このような視点を持ちながら、残り少ない準備期間を有意義に過ごしたい。

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ブログのカウンターを見ると、4/4以降、これまでの平均の2倍の人数が推移している。学生批判ともとれる記事だから、情報が駈け廻ったのだろうか。Googleのブログはアクセス元の情報までは出ないのでわからないし、そもそも知りたいとは思わない。さて、私は今はさっぱりしていて、ほぼ完ぺきに、「行動は批判するけれど、人格は一切批判しない」ことは行動原理として徹底していると自負している。そのため、ドライと見られることも多々あるが。また、教育が職務であるから、一般としてこう考えるのだよ、という意見は提示する。それは、黙っていれば、嫌に思われることはないだろうが、それでは私が大学にいる意味はないと思う。

2011年4月6日水曜日

Facebook

所属する土木工学教室において、今回の地震を受けて留学生の確認をおこなうために、Facebookを使うようにする、との連絡が入り、留学生に周知した。教員ということで私も見よう見真似で登録したところ、今の学生のリンクをたどること数分程度でここ数年間で卒業したコンクリート研学生に繋がった。なるほど、こういうことね。

まだ使い方は良くわからないが、出身学校を検索すると、中学校の友達も見つかった。私は両親の転勤に伴い、小学校で1回、中学校で1回転校しているので、こういうのはありがたい。とりあえず、ほどほどに利用してみよう。

2011年4月5日火曜日

黒船襲来

今日は、新入生の入学ガイダンス。私が入学した1995年も高3の入試時期が阪神大震災であったこと、今回も東日本大震災と重なったことが、オーバーラップしている。その時の、土木を目指したものの、何もできない、何も知らない、という焦りを思い出す。都市基盤、いわゆる土木を目指す今年の学生にはどう映っているのだろう。我々を信じて、授業をきちんと受けて、技術者の卵へと育ってほしい。


さて、午後、2年生が1人で私の部屋をノックする。なんと、今年のコンクリートカヌーに携わりたいとのこと。まだ、今年のチームは動き出していない(リーダーは実家)し、まだ、掲示版にも研究室外メンバーの募集も出していない段階である。数年間、実績を積むとともに、ブログで情報発信する等の成果が、徐々に広がったからだろうか。素直にうれしい。

内部はまだ動いていないのに、外部から起こされる。まるで黒船襲来である。是非、この若者の期待を裏切らないように、今年もマネジメントしてほしいと思う。

カヌーに2年生が加入。ダジャレではない。

2011年4月4日月曜日

何のための自粛

今日は朝から学生実験のためのティーチングアシスタントの打ち合わせを設定し、その後、昼から有志で花見を開いた。形の上では春休みだが、今週4年生をメンバーに迎えるために早めにスタートアップを切って欲しいことと、他大学から大学院に入学したM1もいるし、留学生とも一緒に昼ご飯を食べて親睦を深めようという趣旨。この会を自粛する理由はない。前日に桜餅を買っておき(25個はズシリと重い!)、差し入れをする。学生には、別に酒でもジュースでもいいからとお願いしたら、昼ごはんに合わないためか、何か遠慮したか、酒は夜に浴びるように飲みたいのか、理由はわからないが結局ジュースのみを買ってきた。世間でいう花見ではなく、単に桜の下での昼食会という形にはなったが、目的は達成された、と思う。

日本を立て直すためには経済を活発化させる必要があり、そのためには自粛せずに消費すべきと最近よく言われており、私もそう思う。ここでは、違う切り口から物事を考えたい。

自粛をする、という時、自粛以外の言葉でそれを説明できますか。被災者の事を考えて自粛という言葉が返ってきたら、それは具体的にどういうことですか。別の言葉で説明できますか。その殆どは、結局は周囲の顔を見て、出る杭にならないようにしておこうという思考停止状態であることが多い。

土木工学教室の学生が企画する謝恩会が中止になったと聞いたときに、当初、ホテルが営業していない、電車で帰れない、等という外的な要因かと思った。その後、説明はなかったのでよくわからなかったが、学生が中止することにしたらしい。何をどう考えて中止したのか、是非、関係者に発表してほしかった。もし、自粛であったのなら、何の何に対する自粛なのか、聞きたい。

以下、(感謝される側の)教員としての立場ではなく、先輩の立場として言う。謝恩会という名前を冠している以上、謝恩会である。目的は、お世話になった人に感謝するものである。その中には、自分たちがお酒や料理をいただいてワイワイ楽しもう、というのも含まれているのはわかるが、それは結果としてそうなる付属物であり、その会の主ではない。それで、震災があったから、お世話になった人に感謝を伝えることをやめるのですか?質素でも、感謝の意を伝えられると思うので、形式を変えるということはあり得えた、と私は思う。

結果として、同日同時間帯に、教員主催で、「卒業生を送る会」という名前を冠した会を開催し、食事はなかったが、例年の謝恩会と同様に学生ともたくさん話ができた。会の終わりで、いつもの謝恩会のように、学生側から感謝のメッセージは十分伝えてもらい、花束とプレゼントまで戴いた。学生側からの気持ちは十分伝わった。でも、会が教員側主催、ということもあり、しっくりしなかった。実際には、その辺も含めたすべての事が関係の先生とやり取りされており、含まれているのかもしれない。そうしたとしても、そういう趣旨であれば、事前ないしは開始時に発表すべきだろう。

謝恩会だけのことを言っているのではない。物事をおこなう時、行わない時、全てにおいて明確な意味が求められる。単に簡単な形容詞をつけて、わかったような気分になってはいけない。

私は研究室では、本番の実験が始まる前の実験を、「予備実験」と呼ぶ学生に対して、何の目的かを明確にした名前に変更せよと指導している。単なる練習であれば練習と呼び、○○の検討だったら、○○検討実験とせよ、と。名前が欲しいのではなく、その前に、実験の意味をとことん考えよ。。

2011年4月2日土曜日

ちっぽけなこと

先日も紹介したブログから、曽野綾子の「言い残された言葉」を真似して買ってみた。


http://yohlab.exblog.jp/15711382/





私は実は、曽野綾子の著作を読んだことがない。「無名碑」は土木を舞台に描かれたものであるが、図書館で借りて結局読めずに返してしまった。インタビューや雑誌のエッセイ程度は読んだことはある。過去にコンクリートの学会の年次大会の特別講演が予定されていたが、事情により変更になったことがあったように思う。


さて、2008年(文庫版は昨年末)に出版されたこの本はエッセイ集なのだが、鋭い。例えば1話目は、事故や災害で生き残った人が、PTSDに悩んだりということに対して、ばっさりと切っている。ご本人は、東京大空襲を生き延び、その後政府が何も助けられない中で個人の責任で生き抜いてきた、という。当事者だけでなく、取り巻く日本の社会に対してのメッセージであろう。たまたま地震・津波災害の後に読んだので衝撃は大きいが、他のテーマについても同様に、他人にはない切り口から、新しい見方を提示してくれる。勇気の出てくる本だ。私は曽野綾子のことは気になっていたが、きっかけをつかめなかったので、これを機会に、読みたい。


この本を読み始めて、だいぶ前に読んだ養老孟司の「死の壁」を思い出した。詳細は忘れたが、この本は、あなたが思っていることなんて、所詮こんなちっぽけなことよ、とばっさりと反対の見方で切り捨てるものだったように思う。くよくよする暇があったら、目の前のことに必死に取り組め、というメッセージを感じた、ように記憶している。数年前の卒業直前の、自分の無力さに悩んでいたある学生に勧めたことがある。




先日、桜が開花する前であったが、昼食をともにした留学生を誘って、昼休みに小一時間費やして2人で大学キャンパスを一周練り歩いた。直接的には、宮脇の森を体験してもらうことと、土木工学棟の桜が一番とかねてから私が言っていることの証拠を見せるためであった。間接的には、自然の中を歩くことで、個人なんて、今やっていることなんてちっぽけなんだ、という別の見方を伝えたかった。


私も以前博士論文を書いている際に、行き詰ったら、キャンパスを練り歩いた。気分転換には最適である。部屋に閉じこもっていると、それが全てのような気分になり、潰れそうになることもある。そんな時は、本当にお勧めする。まず、土木棟、実験棟の裏から坂を上がってみる。すると、今までの重圧感を持った構造物を眼下に見渡すようになる。所詮、ちっぽけなものなのだ。くよくよしても仕方がない、という気分になってくる。まあ、歩いたところで、課題のほうは変わらないが、自分の気分が変わればよいのである。


本に限らず、環境に限らず、今までとは違う角度の意見、考え方を知ること。これは絶対に必要。


何だか、また月並みなまとめになってしまった。何の面白さもないな。

2011年4月1日金曜日

DATES

パキスタンの留学生ウスマンから、ドライフルーツをもらう。「デーツ」「何?」「Dates」
調べたら、ナツメヤシだった。

ナツメヤシといえば、中学、高校の地理で勉強した程度で、実際に見たことも食べたこともない。英単語も知らなかった。

似たようなことで、前のベトナムからの留学生から、「日本人は、ベトナムと言えば皆口をそろえてドイモイ、と言う。」と苦笑いしていた。ドイモイが具体的に何かを説明できないのに。

上記の2つから、何か教訓を導き出すことはしない。


話題はちょっと飛躍するが、色々なプライベートの行事に、留学生を誘おうと思っている。まずは、家族のイチゴ狩りと、OB山岳会のキャンプ程度か。ウスマンに話したら好感触。留学中に、コンクリートが関係しない日本の友人を作ってほしいと思う。

メールアドレスの変更 と改組

改組により、4月1日から、大学院都市イノベーション研究院の所属へと変更になりました。英語表記は、Institute of Urban Innovation とのことです。

あと、大学のメールアドレスも次のように変更します。これは、改組とは別の次元の話なのですが、卒業生も含めた生涯アドレスであり、両方所有していましたが、そちらをメインとすることとしました。

hayashi-kazuhiko-gjアットマークynu.jp

(gjは good job  の略ですか by M2学生 →そうありたい)

ynu.jp ドメインは、今までの ynu.ac.jp とは別物ですが、正式な横浜国立大学のドメインです。これまでのメールアドレスもこれまで通り使えますが、個人的にはこちらに徐々に切り替えていきたいと思います。他の本学の大学教員も、申請すれば両方持っていますが、通常は特に必要もないので切り替えることはあまりないでしょう。

また、私はメールソフトとしてGmailを使っています。その中でもメインは大学のアドレスなのですが、なぜか、意図せずにGmailアカウントのメールアドレスが普段のやり取りで見えてしまいます。もちろんそのアドレスに送っていただいても届きます。Gmailは、こちらで使っている分にはGmailアドレスが見えないのに相手には見える、たまに意図せずにそのアドレスから発信してしまう、という変なものですがご容赦ください。私のスキルが足りないだけかもしれませんが。

11/22(水)午後 コンクリートの品質確保 甲子園決勝 in 高松

しばらく、トップ記事に固定します。 気分は日本シリーズ、甲子園決勝、の気概で計画しています。 以下および添付資料の通り、コンクリートの品質確保に関する報告会及びシンポジウムを開催することとなりました。材料-施工の取組みで華々しさはありませんが、i-Construct...