2011年9月28日水曜日

趣旨を尊重して

研究に限らず、プロジェクトは、大きな目的、趣旨が大事である。それが間違っていたら、間違った方向に導いてしまう。

逆に、具体的な指示だけ出された際に、そのことの持つ目的、趣旨がわからないと、単に作業になってしまう。指示を与える側は、趣旨を明確にして公開することが大事で、指示を与えられた側は、直接聞くか、聞けない場合には自分で考えて趣旨を類推する働き掛けも大事である。結局、どちらも起こりうることなので、両方の立場で気を付けなければならない。

人間生活というか人間の営みそのものにも言える。意図的に攻撃されているのでなければ、本来は良かれと思って、何かを行動しているはずである。話し合ってみてやっとわかった、というのは、相手の本心に触れた際に分かり合えた結果だろう。その辺をくみ取ると、世の中の些細ないざこざは、その辺の推察が欠けているために起こっている気がする。

わたしはかつて、相手の言うこと、行動することそのものに目が行って、満足したり、しなかったりした。一喜一憂という感じかもしれない。でも、それがわかってくると、相手はこういうことを考えて、こうやろうとしているのだな、というのがだんだんわかってくる。そうすると、具体的な行動にアラが見えても、趣旨は間違っていないのだから、と寛容になれる。

例示としてはちょっとずれるが、いいだろう。もうすぐ5歳になる娘がやりたいことは全部やらそうと思って行動してきた。これは、後からねだられたりする後始末をしなくて良い、という夫としての身軽さなので、良いとこ取りと妻から言われそうだが。たとえば、ハサミを使いたくなった際も、趣旨を尊重して使わせた。次はカッターが使いたくなっても、もちろんサポートはしながら、使わせた。怪我するかどうかという悩みは、どちらかというと管理側の悩みであり、こちらの都合に過ぎないので、「使って何かを切りたい」という趣旨を尊重して、使わせた。似たような例として、日曜大工も、中断されたり、邪魔されるのは面倒であるが、リクエストに応えてきた。今では、同年代の中では、電動ドリルを使わせたら日本で5本の指には入ると自負している。強要をしたことはないが、やりたいと言ったらすべてやらせてきた結果に過ぎない。この分野で才能を発揮するとは思えないが、トライする、ということはすべての分野に通じることなので、それを願って。

ここまで来て、なんか、全く同じことを過去に書いた気もしたが、まあいいや。
最近またブログを沈黙していたので、再開がこんな話題だと、何か沈黙と関係あるかと思う人がいるかもしれないが、ない。別に人間関係に悩んでいたわけではない。

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