2015年6月16日火曜日

涙腺が緩いのは、だいぶ前からですが。


先週の山口出張は、沖縄の技術者との現場調査と会議でしたが、飲み会のお話の中で、沖縄県での離島架橋の工事の話をお聞きしました。マスコミ向けのオフィシャルな開通式ではなく、それが終わったあとに、地元のからから感謝されたことで、その場にいた技術者が感動して涙した、という話を飲み会の場で聞いて、私も涙してしまいました。その方の話しっぷりと、想像力だけで。

最近でこそ、災害に強い国を作るための土木ということで、建設行為が正当に評価されるということが珍しくなくなってきているものの、私はもの心ついたときから、便利な土地に住んできたので、建設行為で生活が改善されるという経験をしたことがありませんでした。

横浜に住んでいたときには、どことどこの高速道路が結ばれて、渋滞が減ったとか、何分短縮されたというもので、生活が劇的に変わったことはありませんでした。唯一驚いたのが、横浜ベイブリッジができる前と後では、横浜市内の渋滞が圧倒的に変わったというのを聞いたことですが、私が横浜に来る数年前の出来事でしたので実感はありません。

親の仕事で全国転勤がありましたが地方都市においても県庁所在地ぐらいの都会には住んでいたので、不便という実感もありませんでした。

その中で、離島架橋というと、住んでいる人にとっては、学校に行く、仕事に行く、という生活がかかっています。そのような状況を知らない、想像もしない、遠く離れた外野の目から見ると、1人あたりのコストがどうかというマクロな視点でしか見ることができないけれども、現地の人にとっては、死活問題なのです。ここでは、公共投資の是非という議論は敢えて避けていますが、感謝される橋を道路を作ることの意義、というのは本質だろうと思います。


同じく山口の出張で戴いたのが最近JRから発行された災害復旧記録でした。2年前の平成25年7月28日に山口・島根で起きた大雨災害により、JRの山口線・山陰線が大きな被害を受け不通になり、13ヶ月という短時間で復旧を成し遂げた記録です。

山口県のひび割れ抑制システムを、JRのその復旧工事でも利用し、データベースを活用した設計の検討であったり、実際にシステムを動かして、そのデータをとったりしたことは、委員会を通じて聞いていましたが、実際に参加したことがなかったので、当事者意識はなかったというのが本音です。製本された報告書を戴きましたが、まずは、その部分だけ読んで技術的なところを吸収しようと思っていました。

全部読むのに2時間ぐらいかかりましたが、読み進めると、私が知らなかったほどに災害は激しく、被害が甚大だったこと、バスによる代行輸送の困難も伴いながら、13ヶ月で橋梁の掛け替えを実施された、ということがわかりました。開通式の文章や、携わった方々の言葉を読むと、自然と感動し、涙が流れてきました。

みんなが主役とはよく言いますが、それぞれが責任を持って行うことで、災害復旧を成し遂げることの素晴らしさ、地元から熱望されていたこと、など、土木の醍醐味でしょう。

便利で当たり前の日本、きっかけは災害という場面が多いのは複雑ですが、土木の大切さをしみじみと感じました。


関連して、1冊の本を思い出しました。
土木に関する本は収集している方ですが、建設の物語というと、明治時代や、高度経済成長期の話が多く、どうしても違う時代だ、という先入観を持って見てしまいます。吉村昭の本などは、特に。田村嘉子さんも明治時代の近代日本を作る突起の話が多いですが、その中でも私が好きなのは、平成の現代に焦点を当てた「余部鉄橋物語」です。現代、地元の方から愛されて熱望された橋、ということで、これまたおすすめです。

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